愛の聖書

愛の聖書

Add: cabew27 - Date: 2020-11-23 17:34:54 - Views: 6322 - Clicks: 6556

日本人のクリスチャンは、とても少ない。人口の、約0.4~1%(40万人~100万人)がクリスチャンだと言われている。これは、世界でもかなり少ない水準である。しかし、多くの日本人が、知らず知らずのうちに、聖書が語源の言葉を使っている。神、天使、悪魔、愛、教会、などなど・・・実は元々日本語にはなかった単語が、聖書翻訳の過程で生み出されていったのである。そして、それらの単語は、現在、自然な形で日本人の会話、文章の中に定着している。聖書は、日本語に多大な影響を与えているのである。 さて、この翻訳の過程で、日本人の翻訳者たちが参考にしたのが、中国語の聖書だ。中国語の影響を語らずして、日本語の聖書翻訳は語れない。聖書が初めて日本語に翻訳されたのは、江戸末期~明治時代と言われている。その時代の知識層の人々にとって、「漢文」をマスターするのは必須条件だった。つまり、当時のエリートたちは、中国語ができたのである。だから、聖書を翻訳する際に、彼らが中国語の影響を強く受けていたのは間違いない。 実は、この中国語の「聖書用語」が、日本語になった際に、そのニュアンスを分かりづらくしてしまっている原因なのである。日本人が聖書を読んでもピンと来ないのは、中国語の影響による翻訳ミスが大きな原因のひとつなのだ。聖書が語っている本来の意味から、ニュアンスのズレが生じているのである。今回は、簡潔に聖書の翻訳過程をまとめ、特に齟齬が大きいと思われる「聖書用語」を3つ紹介する。 なお、今回の記事を書くにあたり、いくつかの本を参考にした(記事最後を参照)。今回の記事は、これらの書籍をベースにした、私の個人的意見であることをご留意願いたい。尚、聖書の翻訳課程はものすごく細かい経緯があり、それだけで何冊も本が書けてしまうほどだ。今回は、その中核だけを抜き出し、要約した「入門編」だとご理解いただきたい。. . アガペーの中心的な思想は、「無償の愛」「平等の愛」そして「自己犠牲的な愛」である。 キリスト教一の伝道師であるパウロが新約聖書に「アガペー」をもっとも用いて布教した。彼はキリストの十字架に深い感銘を受けたのである。.

See full list on thebible. “聖書では、様々な愛の概念を分けて表現している”なんて言ってしまいましたが、実は日本語に翻訳された聖書では、やっぱり”愛”で統一されてしまっています。 そこで、新約聖書の原語であるギリシア語の方で紹介します。 日本語の聖書で”愛”と表記されている箇所では、実は次の4つの単語が使われています。 1. 「教会」。こればかりは今すぐにでも変更した方が良い訳である。そもそも、「教会」と訳された、ギリシャ語の「エクレシア」、ヘブライ語の「ケヒラー」は、いずれも「人の集まり」という意味である。素直に訳すなら「集会」が正しい。 「教会」は、それまでの日本語になかった、全く新しい用語である。言わずもがな、中国語からの借用である。中国語でなぜ「エクレシア」を「教会」と訳したのは不明だが(※詳細求む)、日本語への翻訳の際、中国語の単語を用いたのは明らかである。 実は、ヘボンの最初の翻訳では「エクレシア」は「集会」となっていた。それが、「明治訳」の際に、やはり中国語を重視したためか、「教会」に変わってしまったのである。これは、当時の翻訳委員会の最大の過ちと言えるかもしれない。 愛の聖書 本来の「エクレシア」は、「イエスに信頼する者たちの集まり」というふうに、「人」に焦点が置かれていた。しかし、それが「教える会」となってしまった。「教会」は、何かを学ぶ場所となってしまったのである。その結果、「学ぶこと」「組織」に焦点が置かれてしまい、本来の「お互いを思いやる」「励まし合い、支え合う」という集会の目的がブレブレになってしまった。そして、現代の日本の多くのクリスチャンが陥っている、「教会教信者」を生み出すこととなってしまったのである。 私は、「集会・集い」に今からでも訳語を変更すべきだと思っている。. 日本語で最初の本格的に翻訳された聖書は、「明治元訳」である(※以後、「明治訳」と記載する)。「明治訳」は、新約聖書部分が1879年に完成し、1887年に旧約聖書部分が完成した。これが、初めての日本語の完全な新旧訳聖書である。その前にも、1830年代から、シンガポールや台湾にいた宣教師や日本人たちが、部分的に福音書を翻訳してはいたのたが、一部分のみであったし、中国語やポルトガル語に翻訳された聖書を、再度日本語にするといった類のものであった。 明治訳が、大正時代に入り、より身近な日本語に改善された。これが「大正訳」。「大正訳」はたいへん評判が良く、今の「文語訳」と呼ばれる聖書として今でも使用されている。この「明治・大正訳」が日本語の聖書のベースとなっている。 戦後、この聖書の見直しがなされ、「明治・大正訳」をより現代的な表現に直したものが「口語訳聖書」である(※詳しくは後述)。その後、1978年に、カトリックとプロテスタントが共同で翻訳し、発行したのが「共同訳」だ。「共同訳」は1987年に改良が加えられ、「新共同訳聖書」となった。「新共同訳聖書」は現在、最もメジャーな日本語訳といっていいだろう。 一方、プロテスタントの「福音派」と呼ばれるグループは、1960年代に翻訳委員会(新改訳聖書刊行会)を設立。本格的に聖書翻訳をやり直し、1970年に発行したのが「新改訳聖書」である。「福音派」グループのほとんどは、この翻訳を用いている。「新改訳聖書」はその後、2版、3版と翻訳を繰り返し、2017年には「新改訳聖書2017」が刊行された。 「共同訳」側も、近年、新しい翻訳を行った。それまでは各章ごとに翻訳者がバラバラだった「新共同訳聖書」を改め、統一された翻訳委員会が再翻訳を試み、2018年冬に「聖書協会共同訳」を出版した。私は、最近この翻訳を主に読んでいるが、「新共同訳聖書」と比べると、かなりの改善が見られ、また解説や注釈も手厚く、重宝している。 まとめると、日本語の聖書は江戸~明治時代に、西洋の宣教師の知識的、金銭的援助を受けながら成立した「明治訳」がベースとなっている。その翻訳過程において、中国語の聖書用語による影響が色濃く残っているのは、異論のない事実である。この四半世紀でかなりの翻訳がなされているといえ、「愛」「神」「教会」などの聖書用語は、そのまま明治時代の翻訳を.

「愛」は最も日本人に想像し難い言葉のひとつである。そもそも、日本語で「Love」を表す言葉は、本来は「愛」だけではなかった。以下をご覧いただきたい。 なるほど、日本語では、立場や相手によって「愛」の用語が違うのである。「忠義を尽くす」「親孝行をする」「敬愛を示す」「仁義を切る」どれも自然な日本語である。だから、簡単に「この用語」と決めつけるのは、至難の業である。 そもそも聖書の「愛」は、ギリシャ語の「アガペー」(無条件の愛)、「フィレオー」(友情の愛)、「エロス」(性的な愛)など様々な用語がある。ヘブライ語も「愛」や「慈しみ」や「憐れみ」など様々あり、用語を統一するのは不可能である。というより、ふさわしくない。 初期の翻訳者たちは、この「愛」をどう訳出するか、相当苦労したようである。初期の翻訳で、「Love」は、「御大切にする」と翻訳されている。宣教師ヘボンは、「Love」を「いつくしみ」と訳している。やはり「愛」は、友情や親の愛情、そして性的なニュアンスもあったために、避けられたのだろう。当初は避けられた「愛」が、これまた中国語聖書の影響で、「明治訳」の際に定着し、今日に至っている。 私は、「愛」の訳は、ケース・バイ・ケースで訳出したらいいと思っている。例えば、「神は愛です」というギリシャ語風表現は、「天の主はやさしい神様です」や「天の主は憐れみ深いお方です」というように訳出した方が良いと思う(日本語は「私は道である」というような、「生き物=モノ」という構文を用いない)。「互いに愛し合いなさい」は、「お互いに、思いやりの心を持ちなさい」。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」は、「まわりの人を、あなた自身のように大切にしなさい」としたら、心にシックリくるのではないだろうか。 私の個人的な意見では、あえて「愛」を一言で訳すなら「仁」または「仁愛」の方が良かったと思う。場合によっては、「大切にする」「思いやる」「受け入れる」「いつくしむ」「あわれむ」などの言葉が適切なように思う。現代においては、聖書用語の影響で「愛」の意味合いそのものが変わってきている。だから、無理して単語を変える必要はもはやないのだが、「仁」が採用されていれば、日本人の神の愛に対する理解は、さらに深まっていたのではないかと思う。 究極的には、「そばいいるよ」「ここにいるよ」というのが、日本. 聖書箇所 Ⅰヨハネ4:7~12 4:7 愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。 4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たち. 。これが、ヨナが神から逃げた理由でした。ヨナは神がニネベの人々の罪を許されることを知っていたからです。 「ですから、私は先にタルシシュに向けて逃亡したのです。あなたが恵みに満ち、憐れみ深い神であり、怒るに遅く、慈しみに富み、災いを下そうとしても思い直される方であることを私は知っていたのです。」*3 愛の聖書 この聖句を見ればヨナは神のことをよく知っており、神がニネベの人々を許すと疑いなく確信して神から逃れようと考えたことが分かります。旧約聖書を深く掘り下げれば、私たちも同じ結論に達するでしょう。. あなたがたは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は初めから人殺しであって、真理に立っていない。彼の内には真理がないからだ。」*5 ユダヤの人々は、自分たちの父として、自らの優しい創造主よりも悪魔を好みました。もちろん、悪魔はとても悪い「父親」です。だから、彼は生まれたての子供の世話をしません。彼は子供のへその緒を切らず、水で洗わず、塩でこすらず(当時の習慣)、布で包みません。その子は哀れみも情けもなく、放っておかれます。でも、ここに神が入って来ます。 「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と. しかも、聖書の説く「愛」は、単なる慈悲よりもっと多くの内容を持っています。聖書の「愛」には、比類ない"お手本"があるのです。聖書は言っています。 「主(イエス)は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。.

ここで「自慢する」とされている言葉は、ギリシャ語の動詞「perpereuomai 」で、「自身を自慢する人、大言を吐く人として示す」という意味です。これは、常に「私がこうした、私がどうした、私が、私が・・・」という様な態度をとる人のことです。このような人は「私」という言葉を頻繁に使います。キリスト教徒である私たちも、同様のことをします。私たちは、「私は主のためにこうしました・・・」「私はこれほど祈りました」「私は今日何時間も聖書の勉強をしました」「私は聖書について、こんなことやあんなことを知っています」等と言います。それはつまり、あなたは「私がした程」のことはしていないから、私はあなたより価値がある言っているのです。しかしながら、私たちが真に愛があるとき、自慢することはありません。私たちは他の兄弟、姉妹たちとなんら違いはないのですから。コリントの信徒への手紙一第4章7節が語る通りです。 コリントの信徒への手紙一第4章7節 「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」 私たちが持っているものは全て主からいただいたものです。獲得したものではありません。ですから、私たちは主を誇る以外は、何事も誰に対しても誇る権利はないのです。コリントの信徒への手紙一第1章31節が告げている通りです。 コリントの信徒への手紙一第1章31節 「誇る者は主を誇れ」 私たちは自分の能力や価値、ましてや献身を自慢しますか?もし私たちに愛があれば、そのようなことはしません。愛があれば、私たちはただ主のみを誇るのです。. 答え: 神は愛であるというのはどういう意味でしょう?まず神のことばである聖書が「愛」をどのように説明しているか見てみましょう。それから、神に当てはめられることを見ましょう。「愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。. ・神の光によって罪の赦しをいただいた者の新しい歩みは、神の命令を守る歩み。→2:4-5 ・神の命令を守るとは、神に愛を表すこと。 5:3 神の命令を守ること、それが、神を愛することです。神の命令は重荷とはなりません。 ・私たちが神の命令を守るから、神が私たちを愛してくださるのではない。→4:19 ・神の愛、主イエスの愛に応えて生きるのがキリスト者。 ・神の愛に応えるには、自分の罪がどれだけ赦され、どれだけ神に愛されているかを知ること。 ・神への愛に向かわない信仰は、神のために苦しむことを厭う。 ・罪の赦しの体験が、神への愛に向かわせる。 ・主イエスの十字架の赦しは、私たちが罪から離れ、神を愛することへと向かわせる力になる。 ・グノーシス主義の信仰は自己中心的で、人々への愛が欠落。→2:9 ・神を愛する生き方は、御言葉に従うこと、そして人々を愛すること。→4:20 ・礼拝を捧げるとは、神に愛を表すとともに、人々への愛に向かうこと。 ・祈祷会(祈ること)も、自分のため以上に人々の祝福のためでもある。祈りを通じて互いを愛する。 ・教会の奉仕も神のためであり、人々のためでもある。 ・真のキリスト者は神の愛の広がりの中を生きる。→4:7-11. 今日読んでいただいた聖書の4~7節には、愛が15の言葉で表されています。この一つ一つが愛の具体的な表れです。愛が私たちの心というプリズムを通って、15種類の美しい光りを輝かせているのです。 まず、4節~7節までを読んでみましょう。. アガペー(άγάπη) それぞれの意味が分かると、”愛”についての理解も深まりますよ! というわけで、順番に解説します。.

最後に、「口語訳聖書」と「共同訳聖書」「新改訳聖書」の決定的な違いについて書く。何度も言っているように、日本語の聖書のベースとなっているのは「明治・大正訳」、のちの「文語訳聖書」である。その際、参考になっているのは主に中国語(漢文)の聖書である。. キリストの愛は「平和」につながる 聖書は、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。なぜならば愛は、すべてを完成させるきずなだ」と語ります。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。. 愛は、自分の利益を求めることもしません。「自分の」という単語はギリシャ語の形容詞「eautou」です。聖書は何度も、私たちが自分のことばかり求めるべきでないと命じています。ローマの信徒への手紙第15章1節から3節は告げています。 ローマの信徒への手紙第15章1節から3節 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分のeautou満足を求めるべきではありません。 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。 キリストも御自分のeautou満足はお求めになりませんでした。『あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった』と書いてあるとおりです」 コリントの信者への手紙一第10章23節から24節もまた告げています。 「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」 私たちが愛と共に歩むときには、自分を物事の中心に据え(個人主義)て自分自身を満足させることは求めません。反対に、愛の中で神に仕えることで、他人を満足させ、祝福することを求めます。それは、イエス・キリストがなさったことです。イエスは愛の中で神に仕え、ご自身を満足させることは求められませんでした。ですから、イエスは十字架につけられたのです。フィリピの信徒への手紙第2章7節から11節が語る通りです。 フィリピの信徒への手紙第2章7節から11節 「かえってイエスは自分eautouを無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。 このため結果として、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです」 愛ゆえに、イエスはご自身を無にして、私たちのために十字架にかかられました。しかしそれは無駄なこと、もしくは一人の人を失っただけのことでしょうか?違います。反対に、イエスが死なれたので、神はイエスを高く上げられたのです。同様. 「相手を受け入れること」 4. 「忍耐強い」という言葉は、ギリシャ語では「makrothumeo」という動詞で、「長い」という意味の「makros」 と、「立腹」「怒り」という意味の「thumos」から構成されています。言い換えれば、「makrothumeo 」は、「腹を立てるまでに長い時間がかかる」という意味になり1、「短気」の 反意語です。「Makrothumeo」は、状況に対して忍耐強いというよりも、人に対して忍耐強いという意味がより強くあります。状況に対して忍耐強いというギリシャ語は同じコリントの信徒への手紙一で後に使われています。ですから愛は、人に対してすぐには腹を立てず、短気でなく、むしろ辛抱強く忍耐するのです。. エロース(έρως) 2. 聖書 新改訳©新日本聖書刊行会 エペソ書5章1節2節の二つの言葉から、「愛の内に歩みなさい」という題でお話をしたいと思います。 この一節、二節の言葉二つの言葉の中に「愛」という言葉が3回出てまいります。.

*愛の実践 サンノゼで行われた年国際ギデオン協会国際大会で、ヒュー・パルマー牧師が語った聖書メッセージです。 コリントの信徒への手紙の中で、最も馴染み深い語句が第一コリント13章にあります。. 「神」は、数多くの聖書用語の中で、最も翻訳についての議論があった用語であろう。英語でいえば「God」。ヘブライ語では「エロヒーム」、そして有名な「ヤハウェ」などとされる、「4文字(IHVH)」の神の名前である。 この「God」をどう訳すかは、中国で激しい議論となった。「神」「天」「上帝」「天主」「天皇」「神主」などの数多くの候補から、最終的には「神」(シン)を採用するか、「上帝」を採用するかで大きな対立となった。アメリカ系の宣教師は「神」を主張し、イギリス系の宣教師は「上帝」を主張した。 「神」採用論には、大きな問題があった。そもそも、「神」は、「山の神」のような精霊・スピリット的な用語で使われていた単語だった。明らかに、天地万物を創造した唯一の神というニュアンスとは違っていた。 しかし、「上帝」にも問題があった。中国で「上帝」は国の王、つまり「皇帝」を指す用語だった。アメリカ系宣教師たちは、唯一の神と皇帝が混同されるのを嫌った。政治的ニュアンスを避けたかったのである。その結果、最終的には「神」に落ち着いたのであった。 しかし、カトリックは「神」の使用を嫌い、新しい造語である、「天主」(てんしゅ)を採用した。この影響は今でも残っていて、例えば韓国語ではカトリックを「天主教」(チョンジュキョ)、プロテスタントを「基督教」(キドッキョ)といってハッキリ区別する。 さて、中国語の聖書が「神」を採用したため、日本語への翻訳の際も、「神」(カミ)が重視された。初期の翻訳の中には、「上帝」や「真神」(真の神という意味)、中には「ゴクラク」と訳したものもあった。しかし、徐々に「神」が主な用語となっていった。 いわずもがな、これは非常に悪い翻訳であった。日本語の「神」(カミ)は、ご存知の通り、中国語以上に「唯一の天地万物の創造主なる神・ヤハウェ」とは意味がかけ離れている。「八百万の神」というように、日本では、そこらへんの木も「カミ」、岩も「カミ」、そよ風も、虫も、鳥も、何もかもが「カミ」だったのである。中国語でも意味が離れていたのに、日本語にしたらさらにニュアンスが変わり、全く違う意味になってしまったのである。どちらかと言えば、「天使・御使い」の方が、本来の「神」の意味に近い。 初期の聖書翻訳に多大なる貢献をした宣教師のヘボンも「神」採用には前向きではなかったようである。 初. . 隣人愛を理解していくために、いくつか聖書に書かれている内容をみていきましょう。 キリスト教の聖典は 新約聖書 と 旧約聖書 ですが、その中の旧約聖書《レビ記》19章18節には、 〈 あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない 〉 とあり. 四つの愛 第1の愛は、性欲や性愛などに見られるような「本能の愛」です。 これはギリシャ語で、エロスと呼ばれる愛です。この言葉は、聖書には出てきませんが、これはきわめて本能的な愛といえるでしょう。.

See full list on hg-ch. 旧約聖書の中に神の愛が表れる場所はあるでしょうか? はい、間違いなく。しかし、聖書を読んでいく前に、本書で調べる議題と、キリスト教全体を理解するために必要な概念を説明させてください。まず、あの人と関係を深めたいな、と考えたとします。そうしたら、おそらくあなたは、その人と一緒に楽しく過ごせるようにと思い、優しい言葉とか、贈り物とか、親切な態度で喜ばせようとするでしょう。当たり前ですよね。 相手の人の愛情は、他人がコントロールできるものではありませんから。自分の感情は自分でコントロールします。だから、愛情を抱いてもらうために、相手を喜ばせるのです。愛の関係をお互いに持つためには、このような行いが必要です。 お互いが愛し合わなければ、二人の愛は成立しません。無理やり誰かに自分を愛させることはできません。神も同じです。神は愛です。神は私たち一人一人を心から愛して、私たちと関係を始めるために、私たちに神を愛してほしいと願っているのです。 神が私たちの愛を必要としているからではありません。神の愛は聖三位一体の中で十分に満たされているからです。むしろ、私たちが神の愛を必要としているのです。そのために、神は私たちに『選ぶ』というたまものを与えてくださいました。 『自由意志』で神を愛するかどうかも決められます。ですから、義務として強制的に神を愛させることはできないのです。 神は人間を奴隷やロボットとしてではなく、自由な存在として創造しました。私たちはこの自由意志を通して、神に従うか、遠ざかるかを選びます。私たちは皆、いろいろなところで自由意志を使います。残念なことに、多くの人々は神から離れ、キリストを受け入れなかったユダヤ人のように、神の戒めを破ることを選びます。 「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。」*1 彼らは戒めが私たちを守るのための柵であることを理解していません。そのため、落ちて滅びます。 戒めは私たちの幸せ、喜び、救いの手引きです。 多くの人々は、神が自分たちの自由を制限するものだと戒めの目的を誤解しています。神は私たちの自由を制限しません。私たちの選択について警告をしているのです。 命と幸せに通じる道があ. ” This is the greatest and first commandment. 「正直にお互いを共有すること」 私は、どれも正しいと思います。しかし、同時に感じるのは、どれも”愛”のある側面や形を表現しているだけではないかなということです。 抽象的な表現ではなく、愛とはどのような概念なのかを明確にするために、まずは現代の日本語での”愛”の意味から見ていった方が良いと思います。 そこで、まずは辞書で愛の意味を調べてみました。 こうして辞書で調べてみると、愛にはポジティブな意味も、ネガティブな意味も含めて、様々な意味があるのです。 多くの人はこれらの意味の違いを意識せずに使ってしまうため、混乱しているのかもしれません。 実は日本語の元々の”愛”の意味は、この中の6番の意味が最も近いものです。 “愛欲”といった場合は、自分の欲望を満たす目的で、異性を求めることを指します。自分よりも相手の利益を優先するといった意味は無かったのです。 実際にキリスト教が伝来したばかりの頃は、キリスト教の”愛”を指す言葉として、”御大切(ごたいせつ)”という言葉を使っていたようです。 やがてキリスト教が広まるにつれて、”愛”という言葉が、本来の自己中心的な意味だけでなく、他人を大切にする意味で使われるようになりました。 こういった経緯のせいで、愛の定義や、愛する対象なども実に様々なものになってしまい、現代のような混乱を生んでいるようです。 こういった経緯を踏まえると、現代の”愛”の意味の混乱の元は、様々な種類の愛の概念を、”愛”という1つの言葉で表そうとすることにありそうです。 でも、実は聖書では、様々な愛の概念をちゃんと分けて表現しているのです! そこで、次は聖書が定義する愛を紹介します。. And a second is like it. 新約聖書の中で、キリストが「隣人愛」について語っているのは次の言葉です。 「隣人を自分のように愛しなさい」 (マタイによる福音書22章39節) この言葉から、隣人愛は自己愛を前提としていることが分かります。. “愛とは何か?”について、少し調べただけでも色々なことが出てきます。 1.

“You shall love the Lord your God with all your heart, and with your soul, and with all your mind. ストルゲー(στοργή) 4.

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